コスト100分の1の保育器 新興国の未熟児問題解決へ

使用しないときは小さく折り畳んだ状態で保管できる(写真:加藤康)


日本経済新聞
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 先進国で当たり前に存在する物やサービスが、発展途上国ではコストの壁によってなかなか普及しない。業界を問わず、よく聞く話である。
ジェームズ・ロバーツ 英マム・インキュベーターズ クリエイター&ディレクター(写真:加藤康)
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ジェームズ・ロバーツ 英マム・インキュベーターズ クリエイター&ディレクター(写真:加藤康)
 体温調節機能や呼吸機能が不十分な新生児を守るための「インキュベーター」(保育器)も例外ではない。新生児を外界から隔離し、温湿度や酸素濃度などを調整する箱形の医療機器だ。途上国では、この保育器がほとんど普及していない故に、多くの未熟児が生まれて間もなく命を落としている。
 だが、英マム・インキュベーターズ クリエイター&ディレクターのジェームズ・ロバーツ氏が考案した保育器「MOM(マム)」は、この問題を解決できる可能性がある。先進国の一般的な保育器のコストが3万英ポンド(約540万円)であるのに対し、MOMのコストは250英ポンド(約4万5000円)と100分の1以下だ。サイズも非常に小さいので、途上国の病院が導入しやすい設計になっている。既存の汎用的な部品や技術を組み合わせることで、低コスト化や小型化を実現しているという。
■「ジェームズ・ダイソン・アワード」で最優秀賞
 ロバーツ氏がMOMのアイデアを着想したのは、英ラフバラー大学プロダクトデザイン・テクノロジー学部に在学していた時のことである。コストを100分の1に下げるという斬新なコンセプトが評価され、2014年に「ジェームズ・ダイソン・アワード」の国際選考で最優秀賞を受賞した。
開発途上国向けの保育器「MOM」(写真:加藤康)
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開発途上国向けの保育器「MOM」(写真:加藤康)
 同アワードは、英ダイソンの創業者であるジェームズ・ダイソン氏の個人財団が主催しているもの。英国や日本など20の国・地域の大学生/大学院生/卒業後4年以内の卒業生を対象として、社会問題を解決するデザインを募集し、優れた作品を表彰する。
 最優秀賞の賞金は、3万英ポンド(約540万円)だ。現在、ロバーツ氏はこの賞金を開発資金として自身の会社であるマム・インキュベーターズを創設し、MOMの製品化を目指している。
■テレビ番組がきっかけに
 ロバーツ氏が保育器に着目したきっかけは、たまたま見ていたテレビのドキュメンタリー番組だった。この番組の中で途上国の未熟児を特集したパートがあり、多くの未熟児が生後すぐに亡くなっていること、あまりに多くの命が失われている故にこの世代は「ロストジェネレーション」(失われた世代)と呼ばれていること、そして保育器があれば助かっていたかもしれないことを初めて知ったという。「途上国の問題には常に関心を向けていたが、保育器については何の知識も接点もなかった」(同氏)。
 当時、ロバーツ氏は大学で取り組んでいたプロダクトデザインのプロジェクトに飽きていたところだった。「誰かに与えられた課題をひたすらこなすだけで、自分にとってあまり面白いと感じなかった」(同氏)。
 そんなロバーツ氏の脳裏をよぎったのは、大学に入って2年目に産業界で1年ほど働いた経験だった。米国ニューヨークのデザイン会社に勤務し、さまざまな開発プロジェクトに関わったという。
 産業界で刺激を受け、大学で退屈な日々を過ごしていたロバーツ氏にとって、未熟児と保育器の問題を取り上げたドキュメンタリー番組は、大きな転機になった。「新しい何かを始めたい」という漠然とした思いと、具体的な目標が結び付いたのである。同氏は、途上国向け保育器の開発を決意する。
■ピクニックテーブルを自ら設計
 MOMのコンセプトを世に問うための場としてジェームズ・ダイソン・アワードを選んだのは、必然だった。なぜなら、ロバーツ氏にとってダイソン氏は“ヒーロー”だからである。
 ロバーツ氏は、子供の頃からものづくりが大好きで、さまざまなものを自作するだけではなく、父親が組み立てた「レゴブロック」のバイクやクルマを壊しては仕組みを自分で考えていたほどだ。18歳の時には初めて“製品”と呼べるようなものを作った。「屋内でも屋外でも使えるピクニックテーブルが欲しくて、自分で構造を設計した」(同氏)。
 ものづくりの楽しさと難しさの両方を知るロバーツ氏にとって、サイクロン方式の掃除機を独自に開発したダイソン氏は「みんながやりたいと思っていることを成し遂げた偉大な人」(ロバーツ氏)。その憧れは、いつしか自分の製品も世に送り出したいという夢へと変わっていった。
 ジェームズ・ダイソン・アワードについては、16歳の時から意識していた。とはいえ、当時は具体的なアイデアがあるわけでもなく、アワードに応募して、しかも賞を取ることなど想像もしていなかった。だからこそ、最優秀賞を受賞したことについては、今でも「はじけるような気持ちになる」(ロバーツ氏)という。
■多くの専門家から情報収集
 ただし、MOMの開発は困難の連続だった。最初に遭遇したのは、ロバーツ氏がまだ学生だったことへの偏見だ。ある医師にアイデアを説明した際、「ひどいアイデアだ」「そんなものは開発すべきではない」と忠告を受けた。学生であるというだけで全く相手にしてもらえなかったのである。
 さらに、自分の経験を生かせるピクニックテーブルなどとは異なり、保育器は使い方も使用環境も分からないという問題があった。それでも、ロバーツ氏はさまざまな専門家を訪ね、途上国向け保育器に求められる機能や性能について少しずつ情報を集めていった。「最初はインターネットで調べ、ある程度の知識を得たら専門家に直接確認し、再び自分のリサーチにフィードバックするという地道なサイクルを繰り返した」(同氏)のである。同氏が訪問した相手は、未熟児問題の専門家や医師、助産師、途上国における病院の専門家、難民キャンプの専門家、チャリティーの専門家など多岐にわたる。
使用しないときは小さく折り畳んだ状態で保管できる(写真:加藤康)
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使用しないときは小さく折り畳んだ状態で保管できる(写真:加藤康)
 今後は、実際の市場で製品化に向けた調査を進める予定だ。ロバーツ氏は、アフリカがMOMの有力な市場になると見ている。特にウガンダは、各地に病院があるものの、保育器をはじめとする医療機器があまり充実しておらず、MOMが近い将来に役立つ可能性が高いという。
 「現地に1カ月ほど滞在し、MOMが本当に役立つのか、どのような機能や性能が本当に求められているのか、この目で確かめたい」(同氏)。まだまだ課題は多いが、1年半~2年後の製品化を目標に掲げている。
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