沖縄「慰霊の日」 幼子に伝える平和 長岡空襲を体験 保育園長の信念

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新潟日報さま
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23日、太平洋戦争末期の沖縄戦犠牲者をしのぶ「慰霊の日」を迎える。沖縄の6月は平和への誓いを新たにする月。4歳で新潟県の長岡空襲に遭った三木元子さん(78)=長岡市出身=が園長を務める那覇市安謝(あじゃ)の「あじゃ保育園」では、主に4、5歳児を対象に平和教育を続けてきた。空襲の記憶が鮮明に残る三木さんは「小さくても分かってくれる」と信念を貫く。米軍基地問題もある沖縄。慰霊の日、沖縄を考える。

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平和学習会は園児らの黙とうで始まった。21日にあじゃ保育園と同じ建物にある高齢者施設。年長組の約20人が、沖縄戦を体験したお年寄りに向き合った。「戦争は殺し合い。本当に怖かった」と語り出すと、園児は時折「怖い」と言いながらも真剣なまなざしを向けた。

園は毎年6月を「平和学習月間」とし、年中、年長組が平和祈念公園やひめゆりの塔(いずれも糸満市)の慰霊碑などを訪れる。学習会は戦争体験者の話を聞く形で開催。平和教育に取り組む保育園は沖縄県内でも多くないという。

学習会の最後、三木園長は「子どもたちは幼いけれど、幼いなりに心に響くものをいただいた。大きくなって、悲惨な戦争を二度としないと誓うと私は思っている」と力を込めた。

悲惨さを写真や話で知り、泣き出す子もいるという。保護者から「なぜそこまでするのか」という問い合わせもあった。それでも「平和は小さい頃からの積み重ね」と説明し、納得を得てきた。信念を貫く背景にあるのは、4歳の時に被災した長岡空襲の記憶だ。

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江戸時代後期から長岡で料亭を営む旧家の長女として生まれた。暮らしが突如奪われたのは、1945年8月1日。「戦闘機が来て、家族で防空壕(ごう)に逃げ込んだ。そこでラジオを聞いていたら『周りが火の海になった』と言っていた」

毛布をかぶって防空壕(ごう)を飛び出し、長生橋に向かい逃げた。「家族で1、2、3で駆けだし」て、橋を渡ると、周りの田んぼに火柱が立っていたことを鮮烈に覚えている。「家も焼けて、財産はなくなった。母は涙を流していた。怖い、なぜこんなことになったのかという思いが、幼いながらも焼き付いた」

高校卒業後、東京で保育士として働き、沖縄出身の夫の健(たけし)さん(79)と出会った。転勤で来ていた健さんが沖縄に戻るのを機に那覇に移った。保育士として働き、沖縄の歴史を知ると、空襲の記憶がよみがえった。「平和じゃなければみんなの将来はない」。当時の自分と同じ年頃の園児に、平和の大切さを伝え40年近くになる。

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毎年、あじゃ保育園の園児は平和学習会で絵を披露する。今年のテーマは「平和って、戦争って」。一人一人が絵を見せ、平和は「みんなでご飯を食べられる」「公園で遊べる」、戦争は「爆弾が落ちてきて怖い」「いっぱい人が死ぬ」と発表した。明るい色が多い平和の絵は笑顔であふれ、戦争の絵は暗く、戦闘機や涙を流す人が描かれていた。

「平和な時代をまい進してください」。沖縄戦で家族を失った男性から語りかけられると、園児たちは「はい」と元気よく返事をした。その様子を見守った三木さんは、しみじみと言った。「言葉や体験をストレートに受け取ってくれるのが子ども。戦争は良くないという子どもが増えていけば、争いがなくなっていく。それを願っている」

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