東日本大震災 あなたに伝えたい <あなたに伝えたい>子どもや孫 今の支え


河北新報社


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佐藤正典さん(気仙沼市)から陽子さんへ

■あのとき何が

 気仙沼市内の脇でギフトショップを営んでいた佐藤正典(ただのり)さん(69)は、東日本大震災で妻の陽子さん=当時(53)=を亡くした。2人は店舗で片付け作業中に津波にのまれた。水の中で正典さんは、割れたガラス扉の隙間から偶然、外に出られて一命を取り留めた。陽子さんは2日後、店舗内で遺体で見つかった。

 あの日、市内の営業先で激しい揺れに襲われた。店番をしている陽子さんが心配になり、すぐに自宅隣の店舗へ車を走らせた。

 割れた陶器や寝具などの商品が床に散らばる。陽子さんは青ざめた顔で椅子に座っていた。貴重品だけ整理して避難しようと、事務所の片付けを始めた。

 ふと、床を流れる一筋の黒い水に気付いた。自宅裏に川が流れており、河口に近い。2人で顔を見合わせた。

 「津波だ」

 出入り口に走ると、ガラス扉の外では、胸ほどの高さの水に車や家が流されていた。水圧でドアは開かない。逃げ場を失い、椅子やカウンターの上で手を取り合うしかなかった。

 水位が上昇して体が浮き、ついに顔が天井に達した。油やヘドロ混じりの水に潜り夢中で泳ぐと、店の外で水面に浮いた。つないでいたはずの陽子さんの手は、いつの間にか離れていた。

 「自分のせいでお母さんを死なせてしまった」。後日、3人の子どもに頭を下げた。「お父さんだけでも生きててくれてありがとう」。返ってきた言葉に涙がこぼれた。

 2人は市内の同じ職場で出会い結婚した。共に会社を離れ、正典さんが一から始めた事業を、陽子さんが30年以上支えてきた。

 客とすぐに打ち解け、会話を弾ませながら別の作業も手際良くこなした。正典さんが病気で約2カ月入院した時は、1人で店を切り盛りした。「陽子がいなければやってこれなかった」

 家でも明るい存在だった。お酒が好きで、歌も得意。伊藤咲子さんの「ひまわり娘」が持ち歌だった。子どもたちとの会話に花を咲かせ、進学の相談にもよく乗っていた。

 震災後、娘2人が結婚し、4人の孫に恵まれた。「良い出来事はみんな、お前がいなくなってから。孫を抱きたかっただろうな」。うれしい場面ではいつも、少し複雑な気持ちになる。

 「すぐに逃げよう」。あの時そう言えなかった自責の念が、今も消えない。一時は出歩くこともできなかったが、今年3月まで7年半、従事したボランティア関係の仕事を通じて少しずつ気力を取り戻してきた。

 「母親みたいにはいかないけど、子どもや孫の面倒を見みないと」。その気持ちが今の支えだ。

 陽子さんには心の中で、いつもこう語り掛ける。「ごめんな。でも安心して見守ってくれよ」


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