SDGs時代の子育てに自然の力が絶対的に必要なわけ





文春オンライン
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いま注目の幼児教育「森のようちえん」では、子どもの中の何を育てているのか から続く

 いま「森のようちえん」が注目されている。簡単に言えば、園舎の中ではなく自然の中で、子どもたちが思い思いの遊びに夢中になるスタイルの幼児教育だ。「森のようちえん全国ネットワーク連盟」によれば、現在の会員数は個人・団体をあわせて約300。ネットワークに加盟していない団体も含めれば、同様の活動を行っている幼児教育機関はもっと多いはずだ。

モンテッソーリやシュタイナーに匹敵する幼児教育

 北欧のデンマークで発祥したと言われているが、日本でも昭和のころから「青空保育」「おさんぽ会」の名称で、自然の中での保育は行われていた。拙著『 ルポ森のようちえん 』執筆のために全国の森のようちえんを訪ね歩いたが、私がそこで見たものは、日本の里山文化にしっかりと根を下ろした、日本独自の滋味あふれる幼児教育としての「森のようちえん」だった。近い将来、モンテッソーリ教育やシュタイナー教育、イエナプラン教育などと並び称されるだけでなく、「SDGs時代の幼児教育」として、海外からも注目されるようになるのではないかとにらんでいる。

 そこで、そもそも自然の中の幼児教育にどんな意味があるのか、日本保育学会前会長で、東京大学名誉教授の汐見稔幸さんに聞いた。汐見さんは教育関係者であれば誰でも知っている、教育学、保育学の大家である。


「生きることは耐えること」みたいな刷り込みはNG

 そもそも人間にとって自然が大事なのはなぜかというと、きっと私たちが自然の一部にすぎないからだと思うんですよね。

 本来は人間の中にも豊かな自然性があるのに、それをぜんぶ括弧にくくって外在化し、把握・管理・利用の対象とする考え方が近代合理主義であり、それが急速に広がったのが近代社会です。

 でも実際は、自分たちの内なる自然と外の自然が違う論理で動いてしまうと、私たちの内なる自然が耐えられなくなってしまう。要するに、内なる自然と外の自然が上手に共鳴し合い支え合うことが、人間にとっていちばん大事だということを近代社会は忘れてしまった。

 理性の力で世界全体を解明できるはずだという考えを啓蒙主義といいますが、そこで見落とされてしまっているのは、人間も自然の一部だということ。言い換えれば、外の自然を破壊したら自分たちの内なる自然も破壊してしまうかもしれないという視点なんですね。

 人間と自然との関係をとらえ直していかないと、人間の本当の幸せとか生きる意味って何なのかとか、決して正解があるわけじゃないけれど、そういうことを考える視座すら得られないんじゃないかと思います。

「やっぱり子どもって理不尽な存在なんですよ」

 やっぱり子どもって理不尽な存在なんですよ。子どもは自分が生まれることに関して、いっさい選択していませんよね。選択していないんだから責任もとれませんよね。だけども生きるということだけは背負わされてしまうわけです。つまり子どもというのは根本的に矛盾をはらんだ存在です。

 だとしたら、生きているってこんなに面白いことなんだとか、こんなに豊かなことなんだとか、こんなに深いことなんだなどと、子どもたちが感じとってくれるようにすること以外に、生んだ世代の責任を果たす方法はないわけです。その責任を果たすのが育児だとか保育だとかの大きな目標じゃないかな。

 最初は面白いだけでもいいけれど、やがて「自分はなんで生きてるんだろう?」ということを考えるわけじゃないですか。でもそういうことを考えること自体が、はっきり言って、生まれてきて良かったなと思えるということですよね。そうなってもらうためには、「生きることは耐えることだ」みたいな刷り込みをしたらまずいわけで。

 だとしたら、どういうときに生きている面白さや尊さを実感するかを、まず大人自身が知っていないと。

 大仕事を成し遂げてものすごい歓喜を分かち合うみたいなことは、すばらしい体験だけれど、日常的な生きる実感ではないですよね。もっとシンプルに、「いっしょにいると楽しいね」みたいなものが本質なんです。そういうことが体験的にわかっていないと、実は、何のために保育しているのかとか、育つとはどういうことなのかとか、子どもたちに本当は何をしてあげられるのかみたいなことを深いレベルで考えられないと思うんです。

 世間での評価とか業績だとか収入だとかそういうものにいちどもまれてしまった人間が、命が本来的に求めているものに気づくのは、なかなか大変なんですよ。優秀なサラリーマンになるためみたいな理屈で教育とかが動いていて、そのなかで競争させられてきて、そこでいろんな価値観を身につけてしまうわけでしょ。それ以外にもその時代時代のイデオロギーみたいなものもあるでしょ。そういうのが私たちの中にこびりついている。

 そういうのをちょっとずつ取り払っていけば、本当に私の命が喜んでいると実感できるようになる。そのとき、森の命の喜びとも響き合うような感覚がある。そういうところまでいけると、持続可能性というキーワードにも実感がともなってくると思います。

外なる自然と内なる自然を出会わせる

「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットではその問題を解決することはできない」とアインシュタインは言いました。つまり、近代合理主義的考え方が招いた問題に対処するには、その考え方をある程度ラディカルにつくりかえなければならない。マインドセットを組み替えるためには、従来の社会の枠組みを飛び出して、自然の一部としての生き生きとした体験を通して、自分の命の世界に少しずつ戻っていく必要があると思います。理屈じゃなくて。

 その視点からいうと、森のようちえんも、ワイルドな森の中に入っていって火起こししてみたいなサバイバル体験をすることじゃないよと、私はよく言っているわけです。それぞれの園が置かれた環境の中で、身近にある自然を最大限に生かす工夫をしてほしい。まなざし次第で、都会にも自然は豊かにある。田舎のひとたちが自然に対する感受性が強いかといったらそんなことはないですし。

 園の近くのちょっとした小川に行って、「どんな音で流れてる?」と聞いた先生がいました。「春の小川はさらさらいくよ」って歌うけど、ぜんぜんさらさらじゃない。子どもたちは「ペコポコ、ペコポコ、チョッポン!って言ってるよ」とか「チョロチョロ、ポチン!と言ってるよ」とか、いろんなことを言ってくれたんです。

 教室に帰ってからそれをぜんぶカタカナで書いて、「これ、なんて読む?」なんてやって、「あ、それ○○ちゃんが言ってたやつだ!」なんてなったら、カタカナの読み方を覚えちゃってね。そういうふうにして自然というものがこんなにリズミカルに聞こえてくるんだとわかったとたん、自然をもっと聞こうとする耳が育ちますよね。耳を澄ますなんてことが始まったとたんに、自然と響き合う準備ができますよね。

 これが自然を最大限に生かした教育法というか、森のようちえんなんだと思ってます。そうだとしたら、現代社会における森のようちえんの役割は、太陽や風や空気やそういう外なる自然と、人間の中の内なる自然を、命の世界のレベルで出会わせることなんだと思うんです。外なる自然と共鳴できる内なる自然をもっている人間を育てる教育の総称を「森のようちえん」ととらえればいいと私は考えています。

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森のようちえんが現代人のマインドセットを変える!?

 環境倫理学者のJ・ベアード・キャリコットは著書『地球の洞察』で、近代西洋的人間中心主義から世界各地の伝統的環境思想をふまえた全体論 (ホーリズム)へのパラダイムシフトの必要性を訴えた。汐見さんが言う、自分のなかの内なる自然が外の自然と共鳴するというのも、近代以降に自然から切り離されていた自分たちをもういちど自然という全体のなかに戻すことだといえる。

 もともと明治以前の日本語では、自分と自然が一体化した状態を「自然(じねん)」と呼んだ。だから私たちは、盆栽に宇宙を感じることができる。「古池や蛙飛び込む水の音」と詠むだけで、宇宙の摂理と同化できる。それがいつしか、人間と区別された西洋的な意味での「Nature」を「自然(しぜん)」と呼ぶようになったのだ。

 ただし、子どもと自然を命の世界のレベルで出会わせるには、ただ自然のなかに連れて行くだけでは弱い。子どもの中の内なる自然が外なる自然との共鳴を始めたときにまわりの大人がどれだけそれに気づいてやれるかが大きな鍵であることは、海洋生物学者のレイチェル・カーソンが遺作『センス・オブ・ワンダー』で述べたとおり。逆にそういう大人が少なくとも一人、子どもの近くにいるのであれば、都会にある小さな自然のなかでも、出会いは可能だ。

 そこで思い出すのが、アメリカのサイエンスライター、エマ・マリスの『「自然」という幻想』。要するに、「手つかずの自然」幻想をやめ、都市部にもある小さな自然を大切にすることから環境保全を考え直そうという提案だ。TED(最新の知見を共有する世界的な講演会)での彼女のプレゼンテーションは、おそらく西洋の自然観にとってはコロンブスの卵とでもいうべき斬新な発想だったはずだ。

 いわゆるSDGs 的な課題(図)が西洋発祥の近代合理主義的なマインドセットから生まれたものであるとするならば、これらを解決するにはそれと異なるマインドセットを構築する必要がある。それを可能にするヒントが日本的「森のようちえん」すなわち「里山のようちえん」にあるような気がする。

 人類の活動が地球に地質学的な意味での爪痕を残している状況を最近では「人新世」ともいうが、人新世の危機を脱するのに必要なのは、SDGs でもマルクスでもなく、「MORI NO YOCHIEN」「SATOYAMA YOCHIEN」かもしれない。


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